平成16年4月(大学4年生)に交通事故を起こし、後遺症として高次脳機能障害(言語障害、記憶力低下、感情のコントロ-ル低下)が残った。最初の病院では「命は助かりましたが今後の苦労は大変です。リハビリの専門病院へ転院してください。」と言われ、2番目の病院ではリハビリできる状態ではなく病院に迷惑ばかりかけての入院生活で「高次脳機能障害の理解はなく、このままでは本人のためにならないので退院して家でゆっくり養生してもらいたい。」と言われしぶしぶ退院した。
3度目の病院は名古屋リハセンで高次脳機能障害の理解者である医師に巡り合うことができ入院した。 私たちは、息子が大学へ復学できるなんて全く考えられなく、せめて社会生活する上で他人に迷惑をかけず自分の意思で外出できるようにしてやりたい。たったそれだけの小さな希望でした。
3度の入退院を経て平成17年1月から12月まで名古屋リハセン更生施設に入所。目的はコミュニケ-ション能力の向上、高次脳機能障害へのアプロ-チ、生活能力の向上、復学の可能性の探索。県外の大学のため、復学するには「一人暮らしができる」かどうかの訓練。
名古屋リハセンの入所時はあまりにもできないことばかりで本当に可能性があるとは信じがたかったが夢と希望を持って臨んできた。リハセンでの生活は指導員の方々にお任せし、家族(両親、兄、祖母の5人)として実行してきたことをお話したいと思います。毎日は5日間のスケジュールの合間に公文(国・英・数)の教材をやらせていました。
外泊は火曜日と金曜日から日曜日でそのときには地元の卓球サークルへの参加、公文の教室(2日)、・・・の音読、・・・の清書、熟語、わからないことは辞書で調べさせたり一つのことを長時間するよりもいろいろなことを学ばせたほうがよいと思い、かなりいろいろな勉強、遊びをやらせてきました。幸い友人(中学、高校、大学)は多く、息子の話し相手の協力をお願いし、時間の許す限り息子の相手をしてもらった。カラオケ、ボーリングに行ったり、マージャンをしたりお風呂に出掛けたり食事に行ったり、連れ出してもくれた。
失語症者には「話すことが楽しい」気持ちを持てるように周りの配慮が必要といわれ、彼の友人に電話、メ-ル、訪問等でお願いし、常に迎え入れる環境つくりに必死だった。それは今でも同じだが・・・。
息子が自分から連絡を取らない時は、私から連絡するように促したり、あつかましいと思いましたが私からも彼の友人に連絡させていただき連絡してくださるようにお願いもした。友人たちも社会に出て忙しくなっているので、息子の存在を忘れられないようにこちらから動かないといけないと思い常に行動してきた。 何でも経験、体験が社会勉強と思い、私たちも時間の許す限りどこでも連れ出した。
更生施設に慣れてきたころ(平成17年4月ごろ)には名古屋リハセンの指導員から「県外のために職員が大学に交渉に出掛けることができないので、復学するには家族が学校へ何度も足を運び理解していただいて受け入れしていただかねばならない。」と、言われた。まずは息子の状態を大学の相談室に連絡をし、受け入れ状態の確認をした。
①精神科の医師、臨床心理士がいるかどうか。
②その方々は高次脳機能障害を理解して見えるかどうか。
③普段はどこで開業しているか。(いざという時に通院できるかどうか)
④受け入れ態勢はどうなのか。
2度ほど電話での相談で夏休み前に学校に出向いた。そのときに、先生(学科長、教務主任、研究室の教授)、学部の事務室の事務員さんと面談し、事故後障害を負ったが本人の復学し卒業したいとの希望が強いことを説明し、何とか卒業できるように協力(支援)をお願いした。そして、十分にバックアップしていきたいとのお言葉をいただいた。
その後、復学までの間に名古屋リハセンの指導員に、教授、事務室の事務員さんに対し息子の状態、接し方(対応)等の説明をお願いした。卒業に必要な単位をクリアしなければならないのでその練習のために秋には復学リハーサル(リハビリ)で3日間受講させていただいた。心配だったので私も同席させていただいて聴講した。無事90分授業も問題なく受講でき、メモも取っていた。
更生施設退所後の3ヶ月間はだらだらの生活をさせてはいけないので毎日のスケジュールの時間割を息子と一緒に作成し、無理ならその都度変更し家事、勉強、スポーツ等をやらせ、夜は父が1日のチエックを毎日していた。普段は兄は同居していないので、帰ってきたときとか電話でかかわってもらい、家族全員が一丸となって彼にとってよいと思ったことは何でも実行してきたし、それは現在も同じで今後もずっと続けると思う。
私も彼と同居して(学校の近くの2DK)平成18年4月に、念願の復学が2年間の休学後に実現。 長く短い2年間でした。
結局、大学の精神科の先生には相談しなくってSM病院(事故時)の脳外科の受診、STの訓練をお願いした。息子の支援者としては、大学内では①研究室の教授(学科長)、担当教科の教授②学部事務室の事務員さん③サークルの友人(院生、後輩)、④研究室の学生。
大学外ではSM病院のSTの先生、NOVA英会話教室のスタッフ、サークルの先輩、以前のアルバイト仲間、地元では名古屋リハセンの指導員、K総合病院のST.PT.OTの先生、公文の先生、みずほの会(地区会)の支援者にかかわりを持っていただいている。
皆さん健司の回復を望んでくださり、ご協力いただけて幸せに思っています。現在もコミュニケ-ションの障害をなんとか普通に近づけたい一心で、大学の勉強以外に余暇は公文の教材、NOVAの英会話教室、社説・小説の音読をさせている。本人もそれなりに自発的にやれるようになってきているが、どうしても忘れがちの場合は少し促すだけにしている。
復学後は、コミュニケーションの障害のためにいろいろなことがありますが、その都度対処していただいている。私としては、彼にとって家庭がほっとできる安らぎの場であるようにし、話を聞いたり助言したりしている。最近では、少しずつ自分で考えて判断し行動することができるようになってきている。
それと以前は、どうしてよいかわからない場合はすぐに私たちを頼っていたが、できなかったりわからなかったりするときは、友人に聞いて対処しているようだ。
ひとりでの生活は無理だとは言われていたが、家庭の事情で私がずっと彼についているわけにはいかず、復学後2週間ぐらいしたら週の半分は私が実家に帰り、彼ひとりの生活をさせてきました。(友人、事務室に連絡し何かあったら対処してくださるようにお願いしている。)わからないことは多いので、その都度電話でのやり取りをしているが、一人での生活の経験で不安と楽しみが入り混じり少しずつ自信につながってきたと思う。
「案ずるより生むが易し」で、ハ-ドルはそのときそのときで高さの調節をしながら何事もチャレンジさせて、親としては見守ることを大切にしている。そして、卒業が人生の最終目的ではなく、自立できることを目標にし、気負いせずあわてずに楽しんで頑張らせたい。そのため失敗等いろいろなことがあるが、何事も経験で失敗は成功の元と思い、プラス思考で前進していきたい。
復学後まだ4ヶ月だが、かなりのスピード回復してきているように思う。振り返り、ここまで辿りつくことができたのは周りの皆様の理解とご協力(支援)のおかげと思いますが、何事も前向きに高望みせずに出来るようになったことを喜んで一歩一歩進んできたことが良かったのかな?と、思います。そして、卒業を次のステップにつなげることを望んでいます。