息子のその後 (K.Fさん)

息子のその後

息子は平成16年4月に交通事故で脳挫傷を負いました。東京の大学に進学、学部は神奈川にあり、当時は大学4年生で就職活動まっただ中の出来事でした。

1.   神奈川の救命救急病院のICUに約1か月間入院(手術あり)。開頭手術・低体温治療。

2.  1. の病院の一般病棟に転棟し約1か月間入院。目は開いたが反応なし

3.  地元の病院へ転院し約3か月間入院(手術あり)。水頭症の手術・本格的にリハビリ(ST・PT・OT)が始まったが失語・高次脳が重くはかどらない。

※公文(国語・数学・英語)を始める。

4.  名古屋リハセンに約2か月間入院。ST・PT・OTのリハビリ

※公文(国語・数学・英語)は継続.

5.  平成17年 名古屋リハセン更生施設に約1年間入所(復学のため)。STは継続。

※公文(国語・数学・英語)は継続

※復学のために大学に何度も足を運び教授とも話し合い受講の体験等し復学可能に。

6.  平成18年 大学に復学・卒業。 1の病院で脳外の診療とST

※公文(国語・数学・英語)は継続・マンツーマンで週2回、英会話教室に通う。

7.  平成19年 名古屋リハセン職能開発科に1年間入所。STは継続

※公文・英会話は継続

※地域の卓球サークルに参加する。

8.  平成20年 一般就労。STは継続

※公文・英会話は継続だが、転勤後に卓球は退会

11年6か月経過し現在に至る。

9.  平成27年 1人暮らし始める。ヘルパー利用。STは継続中

※公文・英会話は退会

10.  令和2年 結婚

事故後16年半が経ち、後遺症として失語症(ウエルニッケ)と高次脳機能障害(遂行機能障害、物事を決断できない障害、記憶障害・臭覚障害含む)とてんかん発作があるが前向きに頑張っています。復学中(神奈川)の余暇には新聞等の音読・清書・要約(5W1H)をやらせていました。何か思い出すことができればと思い色んなところ連れて行ったり、家事全般を手伝わせたり、一人で過ごすこともできるように訓練。大学のサークル・研究室の学生との交流で色々な問題に直面しましたが、その都度まわりが息子を尊重し対応してくださいました。また、STから東京の若い失語症者のつどいを紹介され参加し、当事者・家族との交流が始まり、一人でも東京への参加ができるようにつどい仲間が協力してくださいました。
地元に帰ってきてからは、東京へ行く際には大学の仲間がみんなと出会う機会を作ってくださり、つどいの後は食事会をし、終電に間に合うように送ってくれ協力してくださいました。息子にとっていろんなところで協力(支援)してくださる仲間がいることは回復に大きく左右したと思います。はじめは自分から連絡を取ることはできなく、促せば自分から連絡をし、みんなに会うことができるようにもなりました。

就職後は同僚の理解がなく精神的にも大変な時期もありましたが、ジョブコーチに連絡し転勤等解決をしてくださったり、同じ失敗を繰り返さないように努力したり、自分でも対応の仕方を考えたりしてできることをひとつずつ増やし乗り越えています。平成27年からはヘルパーを利用(福祉サービスを利用)し一人暮らしも経験しました。
東京の若い失語症者のつどいに毎月参加しており、その中でお付き合いをさせていただいた方と約10年の交際を経て今年(令和2年7月)に結婚しました。まだまだできないことはいっぱいありますが、社会に出たことによって、また、結婚によってできることも着実に増えてきています。そして、結婚により息子の健康管理に一生懸命努めてくれる人ができたこと、夫婦の間にお互いを思いやる心が芽生える様子を見ることができたことはとてもうれしく思います。
これからはいろいろ大変なことにぶつかると思いますが、お互い協力し合って幸せな家庭(生活)を築いてくれたらなあと思っています。

子供が高次脳機能障害になった!! そんな時に・・・
・長期戦です。無理せず、自分たちで何とかしようとせず、支援者等いろんな人の手を借りてください。
・どこに相談したらいいのか? 誰に相談したらいいのか? 誰かに聞いてもらいたい! 待っていたら誰も気づいてはくれません。     自分から動こう!!   人をあてにしよう!!
・現在は担当ではなくとも困ったときには時間外に相談に乗ってくださる支援者がいるということは本当に心強かった。

ここまで回復し、今があるのは、早い時期に名古屋リハセンに受診でき、継続した医療・リハビリができたことだと思います。しかし、やはり、一番は私たち家族を支えてくださった方々のおかげと感謝しています。また、みずほの出会いは地区会から始まり、家族の方と親睦を図り、勉強し前に進むことができたことが幸せでした。

(母 記)

障害者の父親のなすべきこと
息子が交通事故を起こし、生死をさまよった挙句、脳のダメージで大変な障害者になってしまった。
病院では、母親はうろたえ、嘆きながらもただただ子供に寄り添い、泣きながら子供のからだをさすっていた。
寝たきりの状態から、やっと起き上がれる様になったと思ったら、決して大袈裟ではなく大学生がいきなり幼稚園児になってしまったようなものだった。
さあ、どうしよう。なにをしなきゃいかんのか、なにができるのか。さっぱりわからん。

こんな時、当事者に一番近いのはやはり母親だった。
なんの知識も、もちろん経験も無いなかでこの子の回復のために、まさに手探りで思いつくことは何でもやってみた。
何をやってもほとんど効果はなく、無力感と絶望感だけが日に日に増していった。
なぜだ、なぜこの子がこんな目に合わなくっちゃいかんのか。わけもなく、誰かを恨みたくなるような気持ちになった。
しかし、息子の事故が、だれのせいでもなく全て息子自身が起こしたことだと思いいたったとき、ある種気持ちの区切りがついた。
もういい、何も考えることはない。この現状をすべてこのまま受け入れようと覚悟を決めた。そうしたら、自分のなすべきことが少し見えてきた。
息子と母親(妻)にしっかりと寄り添っていく、全てを受け止めていくことが父親のなすべきことだと思った。

父親には仕事があり、経済的に家庭を支える必要があった。だが、息子には付き添ってやれず、一番厳しいときを母親に任せざるをえなかった。
神奈川での治療を一応終えて、刈谷での治療とリハビリがはじまった。
医師からは、この人は今、言葉も通じない、今まで行ったことのない外国のようなところに、たった一人でいきなり放り出されたような状態ですよ、といわれたが、その時はその意味はわからなかった。
入院中も、自宅に帰ってからも何度も徘徊をくりかえした。これは、自分はだれなのか、ここはどこなのかと、まるで本来の自分を探しているように思えた。だから、決して抑制はせずに、危険がないように黙ってついて回った。
言葉や認知機能や記憶力の回復には時間がかかったが、運動能力はよほど回復してきたので体を動かすことが脳の回復にもよかろうと思って、キャッチボールやサッカーをしたり、たまには船釣りにもつれていった。また、地域の卓球サークルにも参加させた。
やがて、いろんな機能がある程度回復し、一般就労することができた。これを機会に、主に通勤のためと行動範囲を広げるために自転車を買った。
リハセンの担当医からは、転倒や交通事故が心配だと反対されたが、つきっきりで練習したうえで自転車を使わせた。
就労先の仕事の関係で、危険物取扱者や消防設備士の資格を取りたいというので、一緒になって勉強して消防設備士の資格を取ることができた。

このように、一つ一つのことを息子と両親が一緒になってチャレンジして獲得してきた。障害のためできないことを責めるのではなく、できそうなことを見つけて挑戦していく、そしていつかみんなで克服していく。
そんな道筋を考えていくのも父親の仕事かなと思います。

(父 記)